PTA会長 岡田憲治 #009 めまいをおこすということ 今回は、前回の「まちがえること」の続きのようなお話です。 学ぶ時に必要な「めまい」、頭がくらくらすることについてです。「学ぶ=めまいをおこす」とは、いったいどういうことでしょうか?
めまいは、自分が疑うこともなく「ぜったいにこうだ」と思っていたことが、「じつはそうじゃないのよ」と突きつけられたときにおこります。短く言うと「えっ?・・・」です。
正しいと思い込んでいたことが、まちがっていたのだとされて、どうにも心が宙に浮いてしまい、そのおき場がわからなくなってしまうのです。
そうなると、人は急に自分をバカだったんだとせめ、汗が吹き出るくらいに恥ずかしく、穴があったら入りたいなんて感じます。
でも「恥ずかしい」という気持ちが起こるということは、「ぼくはまちがっていたのかもしれない」と、それを一度心で受け入れたということですから、アホだったと気づいた瞬間に、もうその人はアホではありません。
「思い込みだよ、それは」と言われても、どうしてもそれを受け入れられない心の季節だってありますから、「そうなのか」と受け入れただけで、もう十分りっぱだと思います。「ああ、そうじゃなかったんだ!」と感じているときは、恥ずかしくて、自分がマヌケな気がしますが、じつはめまいと同時に嬉しいことがたくさんおこっているのです。
思い込みが強ければ強いだけ、思いは自分にいろいろなものを強く刻みつけます。だからそのぶん、「そういうことなら、もうあれもこれもかすんで見えるなぁ」とさびしい気持ちになり、心のからっぽ感も強くなります。
でも、そうすると同時に「なるほどそういうことだったのか」という気持ちと記憶もとうぜん強くなり、今度は「はずれた」という経験にプラスして、これまでの思い込みよりもずっと強い「学び」が身に付くことになります。
人から言われたことをそのままコップに入れのではなく、「この水が緑なのは最初に入れた黄色の水に青を入れたからだ」とワンランク上のことがわかりますから、「めまい」はいわば、コップの水の色が変わった瞬間を見たときの「とまどい」なのです。
私は子供の頃、「世の中が悪くなるのは悪い人がいるからで、悪い人を少しでもへらせば世界は良くなる」と、何の疑いもなく思い込んでいました。「悪い奴が悪い世界を作る」です。
でも大人の世界を知ることで、そうではないことを突きつけられました。悪い奴よりもむしろ、自分は良い人間だと思っているおっちょこちょいが、世界を残念なものにしていることが多いのだと。そして、しばらくめまいが止まりませんでした。宙ぶらりんで、自分はアホだなと思いました。 それでも仕方なくそれを認めながら、善人が良いと思ってやることに、注意深い大人になりました。
学んだのです。それは、めまいがおきたおかげでした。 つづく。